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第13回 「鎌倉殿の13人」ゆかりの地 【静岡編】

2022.10.14

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コロナウイルスはゼロにはなりませんので、ご参加の際には基本的な対策をしっかりとして久しぶりの旅行を楽しんで頂きたいと思います。
さて、今回も私からは、引き続き盛り上がっている大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の静岡エリアでのゆかりの地をご紹介していきます。

【三嶋大社(みしまたいしゃ)】
伊豆国一宮であり、流人時代の頼朝が百日祈願に通ったと伝わります。蛭ヶ島(伊豆の国市)から三嶋大社の間にはこの祈願途上での逸話が数多く残されており、境内にも多くの頼朝ゆかりの場所があります。
鳥居をくぐってすぐ、参道右側にある石で囲われた松は、頼朝の百日祈願の際従っていた安達藤九郎盛長が警護していた跡と伝わる。頼朝の寄進により放生会が行われたという神池を過ぎ、総門をくぐった社務所前の地面には石が埋められています。頼朝が参詣の折、背後に現れた怪物を切りつけると刀傷を負った牛のような石が残っていた、という伝説を持つ牛石です。参道右側、神馬舎手前には頼朝・政子の腰掛石と呼ばれる二つの石が並んでいます。

【宗徳院(そうとくいん)】
頼朝が三嶋大社へ百日祈願に通う折この寺の地蔵菩薩にも祈願したと伝わります。門前の橋は頼朝の乗った馬が跪いてついたといわれる窪みがあったと言われますが、橋の架け替えや河川改修を経て今は残っておらず、駒爪の橋の名前だけが残っています。橋を渡ると頼朝が足痛の祈願をしたという祠があり、寺には年代不詳ではあるが頼朝像が安置されています。

【法華寺(ほっけじ)】
白鳳時代の大寺、大興寺が代用国分尼寺となって法華寺と寺号を改めたという由来を持つ寺。境内の墓地には頼朝が旗揚げの成功を祈念して心経を写経して奉納したと伝わる経塚があり、その上に地蔵尊を安置しています。本堂前には頼朝の腰掛石があり、頼朝が衣をかけたという松もあったが、約30年前に枯れ現在は残っていないようです。

【右内神社(うないじんじゃ)】
三嶋大社の守護神として、大社へ向かう下田街道の左右に左内神社とともに鎮座していました。頼朝が百日祈願の際たびたび立ち寄り参詣していたが、境内に手洗い水がないためなぎなたで参道傍らの地面を二、三度突いたところ水が湧き出したという伝説があります。境内には「頼朝公手洗水址」の碑と伝説を書いた看板が建てられています。

【願成寺(がんじょうじ)】
源頼朝の百日祈願の時に宿所となり、平家打倒の願いが成就した後に寺号を賜ったという寺伝を持っています。江戸時代、三嶋大社宮司矢田部家の帰依を受け、現在も社家一族の先祖供養を行っています。参道の両脇には山門の代わりに植えられたとも言われる樹齢300年以上の一対のクスノキが繁り、市の天然記念物に指定されています。

【心経寺(しんきょうじ)】
創建年代等は不詳だが、法相宗の寺であったものを頼朝の命によって真言宗に改め、寺号も神鏡寺と称するようになったと伝わります。応永22年(1415)に臨済宗に改宗し、寺号も心経寺に改め現在に至ります。永禄12年(1569)の北条氏と武田氏の戦いの際には北条氏の本陣が置かれました。門前の道は三島八小路のひとつである上小路です。

【対面石八幡神社(たいめんせきはちまんじんじゃ)】
富士川の合戦後、黄瀬川東岸に宿を置いた頼朝のもとに、生き別れであった弟義経がはせ参じて再会した場所と伝わる神社です。境内に対面石があるほか、頼朝を祀った白旗神社が鎮座しています。当時の黄瀬川は伊豆と駿河の国境でこの地は交通の要衝でした。『曽我物語』では頼朝と政子が黄瀬川の宿所で再会する場面が描かれています。

以上、今回も引き続き、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のゆかりの地のスポットの内静岡エリアのスポットをご紹介しました。ドラマは佳境に入ってきていますが、当ブログでは今回でこの「鎌倉殿の13人」のゆかりの地シリーズは一旦最終回とさせていただきます。

これまでご覧いただきありがとうございました。
次回からは、福岡のまだあまり知られていない観光スポットを紹介していきたいと思っております。ご期待ください。

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